コラム「条件のない愛」

条件のない愛は、無私な愛なのではない。

愛は自分を通して流れて行くものだ。

だから、
たとえ愛する相手が居たとして、
愛を手渡す「自分」が存在しないなら、愛は流れてはゆかない。

愛が水だとしよう。

すると愛は、あなたという水道管を通って
あなたが愛に満たされて、やがて溢れて、
それから初めて相手へと流れてゆくことができるのだ。

愛が光だとしよう。

すると愛は、

あなたが自分の内側から光り輝くことで相手を照らし、

やがて、相手も自分自身の愛で輝くようになるだろう。

条件のない愛とは、
法的な結婚とか、物質的な保障とかの
社会的な条件を付けないばかりか、
相手が社会的な存在であることも条件付けていない。

さらに、自分自身が
相手から愛されることさえも強要していない。

ただ、自分の愛を表現して捧げるのみだ。

この手の人物像は、時おり演歌や物語に登場するが
本当は、この現実の社会に不適応な人のことなのかもしれない。

条件も見返りもないのだから、
誰かを愛することができただけで、その愛は成就している


条件のない愛をまっとうする人はきっと「バカなヤツに違いない」。

物語はとてもはっきりと、
「条件のない愛」がこの社会では不成功に終ることを示している。

そして、作家は主人公に社会的な成功をさせないことで、
はっきりと条件のない「愛」だけが読者の心に残るように意図している。

たとえば、アンデルセンの「人魚姫」は
王子を愛し、王子の元にとどまるために、
自分の声を失って、歩くたびに激しく痛む両足を手に入れる。

しかし、別の少女が自分を救ってくれたと勘違いした王子は
人魚姫ではなく、別の少女を妃に選ぶ。

誤解を解けないまま、人魚姫は死ななければならなくなってしまう。
それでも、自分が助かる代わりに、愛する王子を殺すことができない。

そして、人魚姫は昇天する。

条件のない愛の何かが
便利だったり、都合が良かったりすることはない。
むしろ、社会的な都合では、決してよくないに違いない。

ある男女関係に、何も求めず、何ものにも執着しないとき
その愛は必然的に、社会的な形を持ち得ないまま終るだろう。

条件のない愛は行き場を失い、悲しむだろう。

 

結局、その愛になんのゴールも形あるモノも残らなかった

ということは、恋愛したが、報われなかったということか!

と虚しい気持ちに襲われるだろう。


だが、ずっとずっとあとになって・・・、

そうか。
私は、恋愛に失敗したのではない!

かけがえのない「条件のない愛」を体験したのだ♪

と分かる日が来るだろう。

人魚姫を読んだ読者と同じように・・・。

ラ(^王^)ノPure Love