デキナイことが私らしい

デキナイことが私らしい

~ デキル事ではなく、デキナイ事が道しるべ ~


若い頃の私はかなり傲慢な男だったように思う。


勉強が実際よくできたワケでもなく暗くなるまで野や山や海岸で遊びほうけていていつも母に怒られていたが、それでも自分はその気になれば何でも誰よりもデキルはずだと信じていた。


高校では3年間毎年生徒会長を務め柔道部や天文部の部長でバンドではギターを弾きボーカルをやっていた。身体も大きく押しも強かったのでどこでも目立ち一目置かれる存在だった。


高校を卒業して一旦電鉄会社に就職したが後に大学に入り直しそこを2度卒業するとさらに上を目指した。夢は限りなく広がっていった。要するに私は私にとってのスーパーマンだったのだ

しかし・・・世の中そうは上手くはいかないものである。


私は2度大学院の入試を失敗しさすがに落ち込んだ。

当時つきあっていた妻は「向いてないってことじゃないの?」と言った。


研究者になる人は子供の頃からそういうタイプなのではないかと。勉強が好きで集中力がありじっくりとよく物を考え長い時間を机の前で過ごしよく本を読む人なのではないかと言う。


私とはまるで正反対である。


私はそのことを受け入れることができず妻と口論になった。

私のスーパーマン像がガラガラと崩れ去ってしまった瞬間だった。


とはいえ、私は私のスーパーマンを失うわけにはいかなかった。

崩れたスーパーマン像の残骸を大事に抱え結婚した妻と共に渡独し性懲りもなくドイツの大学に入学したのだ。それから生活のためにガイドの仕事を始めた。これが実に楽しく私に向いていて収入もビックリするほどよかった。


結局私はほとんど机に向かって思考したり研究したりすることもなく、子供の頃と同じように暗くなるまでお客さんと一緒に野山を駆け回って遊ぶような生活をその後20年以上続けたことになる。


ドイツ・スイスをガイド・通訳で飛び回っている時代私はどんなに忙しくてもほとんどストレスもなく常にその仕事を楽しむことができた。とても私らしく過ごすことができた時代と言えるだろう。


また、私は長い間「できません」と言うことができなかった。

人は「デキル」ことを目指すべきだし、頑張れば「デキルはず」なのだと信じていたからだ。


人は頑張らなければならないのだと。


だが、今は「頑張れば」「デキル」ということは、「無理をしなければ」「デキナイ」ことなのだと思う。私が長い間「頑張ればできる」と信じてきたことは、「私にはできません」と言うべきことであったのだと思う。


無理をするということは自分らしさを歪める事ではないだろうか。

私は結局私らしさを歪めることはできなかった。

スーパーマンは「幻想」であった。


私はようやく40代も後半になってガラクタと化していたスーパーマンの残骸を捨てることができたと同時に「それは私にはできません」と言えるようになったのだ。


ところで、2014年は松たか子の唄う「アナと雪の女王」の挿入歌が流行した。


曲のサビ部分は「ありのままの姿見せるのよ」「ありのままの自分になるの」というフレーズで、街中のどこにいても聞くことができた。


物語の中で雪の女王は制御できない力を持て余し、もう国の統治などできない!自分は女王という地位にふさわしくないと一人雪山へ去る。


「国を完璧に統治する女王」というスーパーウーマンを捨てたのだ。


彼女がデキナイ自分を受け容れて、今の自分のままで大丈夫なのだと思えたとき、本物の女王への道を歩み始めたと言えるだろう。


どうやら人生はデキル事よりもデキナイ事を道標にした方が、

ありのままでスムーズに進むようだ。


羅王☆(^王^)ノ