コラム「お金はあなたのモノではない」

お金はあなたのモノではない?


税金やお金のことを考えるとき、

いつも私は聖書の一節を思い出します。


その中で民衆が

「我々はローマに税を納めるべきでしょうか」と訊ねる箇所があり、

それに対してイエスが、そのコインには何が描かれているかと問い返し、

ローマの皇帝(カエサル)が刻印されていますという返事に対して、

「カエサルのものはカエサルに返しなさい」と応えるのです。


そうです!

あの有名な問答です。


当時エルサレムはローマという外国の支配下にあり、

イスラエルの王と自称したイエスはローマから怖れられていた存在でした。


イスラエルの解放者、ローマの反逆者であるイエスが税金を払うことは

ローマ法で決められた正しい行いだから払いなさい、などと言うはずがない。


ではイエスの真意は何だったのか?

は聖書研究家に任せることにして、


私はこの発言の中で「ローマのお金はローマの所有物である」

という前提と「お金は所有者に返してしまうのがよい」

という勧めを私なりに現代風に解釈し直したいと思う。


まず、当時のイスラエルではローマ通貨が通用していました。

これはローマがイスラエルを経済的に支配するために

必須の措置だったのだと思います。


お金は支配ツールなので、

国家や政府など、お金を作り出す側が

経済や政治を支配できるということです。


法によって利率も価値も変えることができます。

また、お金を金貨ではなく、紙幣に、

または米やトウモロコシにすることも可能です。


法なので、お金を稼がない人がいても、

法を変えれば楽々と暮らせてしまうでしょう。

つまり、法と通貨を支配する者が、

誰が豊かになり、誰が貧乏くじを引くべきか

という経済構造をも操作できるようになっています。


現代の経済社会でも

富の分配や取引の媒体として

融通の利くお金はどうしても必要です。


そして、そこで暮らす我々も好むと好まざるにかかわらず

お金の収支を合わせる必要に迫られます。

だから、守銭奴でなくてもお金には執着してしまうものです。


解放者であるイエスは、

その通貨制度による経済支配から脱して自由になるには、

まずお金に対する執着を捨てることだと知っていたのだろうと思うのです。


私は40代初めにとてもお金に困った時代がありました。

もうどうあがいても払えない。

どうぞ、裁判所でも管財人でも

私の資産や銀行口座などどこでも見てください。


そのときの私は不本意ながらそうやって

お金に対する執着を手放したのでした。

まさかイエスの言葉に従ったわけでもなく。


もし今この時代にイエスが生きていたとしたら、

お金のやり繰りに追われ、

もっとお金を得ることが出来ないかと

一生懸命お金に執着している我々に対して、

やはり同じように問いかけるのではないでしょうか。

そこに何が描かれているかと。


日本円には福沢諭吉や樋口一葉などの偉人と共に

日本銀行券の文字が印刷されています。

つまり、

お金は日本銀行と金融システムを保有する人の支配ツールです。


あなたのモノではありません。


さあ、その執着の手を放しなさい!・・・と。  


占い師 ☆ 羅王 (^王^)ノ