エッセイ「我々は宇宙人にゃ」

我々は宇宙人にゃ

 

やっぱり師走は気忙しい。

私は占い師だからいつも椅子に座っているだけで、

サンタを引くトナカイのように走り回ってはいない。

 

それでも商店街にジングルベルが流れる頃になると

外で人に会う機会が増えるのは確かだ。

 

そうやって私が人並みに忙しがっていても、

猫たちはお構いなしにその横でもっと旨い飯をくれ~とか、

もっと楽しい遊びを提供してくれ~ともっと可愛がってくれ~と要求を突き付けてくる。

 

この愛らしさに抵抗することが出来るのはトイレを我慢して顔色が変わっているときくらいだろう。文字通り猫なで声で甘えて望むことをしてもらうのが猫族の得意技なのだ。

 

そうかと思えば庭で一番景色がよくて日当たりのいい場所でまったりと寛いでいる。気に入らないヤツが近づくとシャー!あっちに行けと威嚇する。

 

その自分勝手さが人を癒すというのだから人のココロとは不思議なものである。もっとも飼い主は私ではなく娘で戦後の文化住宅になんと猫4匹(+犬)も飼っている。

 

最近私が占いイベントを催す

尾道の古民家にも二匹の子猫がやってきた。(上の画像)

 

小さくて可愛い純真な目は部屋の中で毎瞬新しい獲物を発見するらしく、いろんなものに飛びつきじゃれたりしながら一生懸命に狩りの練習をしている。私がちょっと遊んでやると、手を引っかいたりかじったりするのだ。

 

猫との共同生活は好まないが可愛がるのはやぶさかではない。町をうろつく野良犬は狂犬病の恐れがあるため保健所に駆除される対象になってしまうが、野良猫となると通報があっても即座に駆除の対象にはならず地域猫として管理する以外に手はないらしい。

 

そうやって猫族がどんどんこの地球に蔓延してゆくと子供のマンガではないが、ひょっとして猫族は地球征服を企んでいる宇宙人ではないかと思えてくる。

 

だが「キミたちは宇宙人かね?」と訊いてみても、

にゃ~にゃ~と応えるだけだろう@。@)

 

猫族が宇宙人で我々人間へのメッセージを携えていると想定すると面白い。メッセージと言っても猫は人間の言葉を話さないので生態そのものがメッセージだと捉えるしかない。

 

真っ先に思い付くキーワードは二つ:

可愛がられる存在。

働かない。

 

これは「働かざる者食うべからず」という標語と正反対である。この標語は古く、なんと新約聖書の一節らしい。

 

ある主張に対立する命題をアンチテーゼというが、猫族の生態は明らかに我々人間の生き方に対するアンチテーゼに見える。

 

「働かなくったってラク~に暮らしていいよ~♪」

というアンチテーゼだ。

 

そんな風に捉えると、毎日仕事で疲れて帰宅した後にもかかわらず猫族に甘えられることで癒されるという気持ちも分かる気がしてきた

 

仕事と残業と忘年会、家に帰ると大掃除に年賀状準備と帰省支度などなど、大忙しな師走だからこそ癒しが必要なのかもしれない。

 

要するに猫族なり犬族なり、猿なり鳥なりの自然な生態、

つまりありのままの生き方が人にとっての癒しになるのだ。

 

 時々、ペットをとても愛しているのに自分のペットを叱りつけている場面に出会う。ああ、この飼い主はそういう形でしか愛情を示せないのだなぁと思う。

 

それでもペットはその愛情を受け取ってくれる。言葉が通じないのは時に素晴らしいと思う瞬間だ。

 

ところで、あなたの周りにあなたを癒す人はいるだろうか?

 

ある人があなたの無意識な期待を裏切るので、あなたはついつい能無し!役立たず!と叱りつけてしまう人がいたとしたら、あなたを癒しているのは多分その人なのだ!

 

なぜかいつも叱り付けてしまう人や、どうしてもその人の生き方を揶揄したり、からかってしまうなら、その人は多分ありのままの自分を生きている人であり、あなたはその存在に苛立ったりしながらも、どこかで癒されている? ということかも知れない。。。

 

犬猫との共存を嫌う私はといえば、いつも妻に厳命している。犬猫を飼うかオレを飼うかどちらかにしろ!と・・・(;^王^)

 

 

羅王。