コラム「思考は他人だ」

思考は他人だ

自分自身と思考とを混同する人をよく見かける。

だが思考は他人だ。

あなたではない。

 

自分と思考との関係は

「自分の肉体」と「着ている服」との関係に似ている。

背が伸びたり、日焼けしたりで服の色やサイズが合わなくなったら新しい肉体に似合う新しい服に着替えるのが当り前だろう。

 

ここで言う思考とは人が何かを表現したり考えたりするときの基盤になる部分であり、いろいろな感情や論理の支えになっている部分を指している。その「思考」を論理とか立場による利害とか思考回路とか信条などと言い換えても良い。

 

多くの人は多分、ここで私が「自分と思考の違い」を説明しても理解できないだろう。とはいえ、この自分と思考、つまり「自分の肉体」と「着ている服」とを混同している例を幾つか挙げることで、その違いをほんの少し明確にしてみたい。

 

3歳児の結婚宣言:

3歳の子供が「誰かを好きだ」ということを「結婚すること」なのだと理解したときに、大きくなったら「ボクお母さんと結婚する♪」とか「お父さんのお嫁さんになる!」と表現するものだ。この思考は微笑ましくてよい。だが、それから15年後にもそういう思考があれば大問題である。普通はほどなく、この(好き=結婚)という図式をもつ思考は、家族間では通用しないのだという認識をもち、この思考回路を手放すことになる。

 

同窓会の二次会:

同窓会で出来上がった頃、Gは隣の会場にかつての同僚Kを見つけた。5年ぶりだった。Kとは仲がよかったので、なつかしさに二次会を蹴って近くの飲み屋で呑み直すことにした。地方では中堅企業として名の通った会社を辞して転職したKだが、その転職先も長続きはせず、今は独立して小さな店を経営しているという。隣りの会場はそういう同業者の集まりだったようだ。それなりの苦労はあったのだろう。Kは少し疲れた感じではあったが、自分よりもずっと大人の雰囲気になったと感じていた。最初は共通の同僚のことやKの店の経営事情など、お互いの近況報告をしながら旧友を暖めていたが、やがて話は険悪になった。中間管理職に昇進したGは、今の仕事は以前よりずっとやり甲斐を感じていると言ったが、それに対してKが独立してオーナーにならない限り仕事のやり甲斐なんてものはなかったと感想を述べたからだった。

 

Kに悪気はなく自分の考えを披露しただけなのだが、Gはその発言を自分の立場の否定であり過小評価だと受け取ったようだ。Gの心の隅では社員として使われる身とオーナー社長とでは立場が異なるとはもちろんよく分かっていたのだが、自分と思考とを分離して考える習慣がなかったので、無意識に「自分という人格が攻撃されたのだ」と受け取って自己防衛に走ってしまったのだ。

 

Kは自営業者としての立場とそれに見合った論理と思考回路を持ち、Gは優れた社員として働くための規範を持っている。どちらかが正しいのではないだろう。どちらも自らの社会的立場という肉体に、それぞれ相応しい服を着ているだけなのだと思う。

 

デキ婚したA子:

A子は、出来ちゃった結婚なんてトンデモない!そんな恥ずかしいこと考えたこともない。先に結婚してから子供を生むのが正しい順序だ。私は絶対デキ婚なんてしない、といつも言っていた。デキ婚に憧れるB子と話をしたとき「B子は非常識よ」「デキ婚なんかしないのが常識」と自説を守って論争し一時的にB子と仲違いしたこともある。ところが実際、婚約間近でA子がそうなってしまった。A子は何故こんなことになってしまったのか?避妊に失敗した彼がいけないんだ!と自分の信条とは異なる状況を受け容れるのに嘆いて悩んだ。とはいえ、愛し合う二人がいて、すでに結婚する準備があったので結婚という儀式や世間体のためだけに中絶なんて出来ない。仕方がない。まずは親族の顔合わせと内祝いだけ済ませて入籍し、挙式や披露宴は安定期に入ってからやるか、或は出産後に改めてやるという運びになった。

 

私は、この「デキ婚はトンデモないし、デキ婚などしないのが常識だ」という考え方を否定しているのでも肯定しているのでもない。ただ、それはひとつの規範であり、ある社会や地域の属性に過ぎないと思う。A子のようにその考え方と自分とを引き離して考えることが出来ない人は、結婚前に妊娠したという現状を受け容れるのに時間がかかり苦悩したのだろう。

 

思考とは、現状に合わせて使うことのできる道具に過ぎない。思考は社会的あるいは精神的な成長によって形を変えたり、場合によってはすっかり取り替えてしまうこともできるものだ。だから、その考えが自分だと勘違いして、異なった考えの人と出会って異なる意見を聞く度に自分の人格が攻撃されていると考えたり、見下されたと感じて被害者となったり、「自己の尊厳」と「立場としての論理」とを取り違えて相手を攻撃するのは、完全にお門違いだ。

 

「以心伝心」によるコミュニケーションは利害や立場を共にする者同士、同じ価値観を持つ者同士が前提だ。それは同じ立場と思考を無意識に相手に求める態度だ。今は価値観が多様化していると誰だって分かっているハズ。価値観が同じでなければ話が通じないというなら、その人は相手を理解しようという包容力に欠けている。自分の思考を守って相手を切り捨てるのではなく、自分という領域を広げるという視点が大切なのだ。

 

船長のアイデンティティ:

船長が私は船乗りだ!船に乗らないなら私ではない!と言うとしよう。この主張は、現在の私の職業が船長で、それが自分のアイデンティティであり、とても誇らしいというものだ。この思考には何も問題がない。現状と思考がぴったりと符号していて幸せな人だと言える。現状とズレのない肯定的な思考は、幸せな状態における健全な思考である。状況は異なるが映画「紅の豚」の主人公マルコが「飛ばないなら、ただの豚だ」と言うのにも通じる。そう考えるのが自分だし、そうしないなら自分ではない!という思考が現状認識に合っている限り手放す必要はない。

 

もしも、年を取って船を下りたら、船長ではなく船の整備をするかもしれない。飛行機に乗れなくなったら、若いパイロットの教官をするかもしれない。そのときは自分の心情を支えるために、思考をほんの少し変えてやる必要がある。「私は船長だ」から「私は船乗りのサポータだ」へ。或いは「飛行気乗りを育てるのが私の役目だ」と。思考を支える論理は家で言うと床や壁のようなもので、いつもその人の立場と心情を反映している。人生の途上で床や壁をリフォームするという状況を迎えたら、自ずと土台の強度や屋根や柱の素材にも変更が生じる。

 

よい子Mの完璧さん:

Mは幼い頃からいつもお母さん(またはお父さん)の言うように生きてきた。学校でも優等生だったし人気者だった。親の言うことをよく聞く子供だったので大きな失敗はなく、小学校も中学校もスムーズで幸せだった。全体に反抗期もないままに平穏に過ごした。ところが高校生(大学生、社会人)になって初めて大きな挫折を味わい、親が「Mに失望した」「こんな子に育てた覚えはない」と言うのを聞いてキレた。今になってそんなことを言う親に激怒して、初めて親に反抗した。「自分のしたいようにさせてくれ!」と叫んだ。ようやく反抗期を迎えたのかな、と思った。とはいえ、何かをしたいわけでもないMは、独立しているのでもなく、結婚しているのでもなく、これが自分の天職だと胸を張っていえるような仕事にも就いていない。何をどうしていいか分からない。

 

これはちょっと難しい。新しい思考を受け容れる前に古い思考を捨てなければならないのに、その捨て去るべき思考が一体何なのかが明確でないからだ。この場合の親子関係は「親離れできていない」または同時に親が「子離れ出来ていない」ことがさらに問題を複雑にしている。 お母さん(お父さん)を喜ばせようと頑張ったのにとか、あなたの育て方が悪かったんだ!などと非難しても過ぎたこと。もはやこの問題の解決に現実の親は本質的に関係がない。なぜなら、たとえ親が他界していても、この「よい子症候群」は残るからだ。

 

子供の中では「親という存在」と「支えになる思考」とが「依存」という「感情的な鎖」でひとつになっている。それで問題の本質を明らかにしようとすると、親の態度や過去の親との関係に引き戻され、自分の思考ルーツを解明しよう!とするといつの間にか感情的な迷路の中に埋没してしまうのだ。

 

実はこれは私が別のコラムで述べた「完璧さん」と「ダサいさん」の構図として捉えることが出来る。完璧さんとは、こうであるべきだと考え、現実の自分を否定し、自分はもっとより良い自分であるハズだし、完璧なハズだとして「夢見ている理想の自分像」のことだ。ダサいさんとは、現在色んな点で自分に不満があり、受容れたくないと思っている「ありのままの自分」だ。ダサいさんは現実の自分として存在していて、完璧さんは・・・ただの幻想だ。どこにも居ない。存在していないのだ。

 

今でも親あるいは周囲の人からの賞賛を求め続けているなら、あなたは完璧さんを夢見ている。

 

このコラム「ダサいさん」を読んでも大抵の人にはその違いがはっきりとは分からないだろう。「完璧さん」と「ダサいさん」を明確に認識できる人は、ちゃんとダサいさんという本当の自分で生きている人だ。つまり、何がダサいさんで何が完璧さんかが明確に理解できないなら、あなたは本当の自分を否定することで無意識に完璧さんを生きていることを示している。かつての私のように。

 

この場合、一番大切なことは「今の自分自身との和解」だろう。

それがダサいさんを受容れるということだからだ。

 

今ここで、不満な状況の中にいる自分。

社会的にまだ何の成功もしていない自分。

他人から賞賛されるものを持たない自分。

収入も恋愛も順調でないと思える自分。

 

こんな自分を許して100%受容れることができるだろうか?

 

だが、これを受容することが自分自身と和解することなのだ。この場合、あなたは実際の自分の置かれた状況をかっこ悪いと否定しているので、その現在の本当のあなたを「ダサいさん」と呼ぶのだ。ダサいさんをありのまま受容れること。それが「完璧さん」を脱ぎ捨てるための第一歩だ。

でも

でも

でも

でも

私は素晴らしい人の筈だぁー!

 

うん、

その思考はポジティブでよい。

 

また、それは別段、違ってはいない。

 

ただし・・・、夢からは出発できない。

 

もちろん、

あなたには素晴らしい才能と可能性があるのだろう。

それは今はまだ満足に成就していないし、

今はその才能を生かす方向に進むこともできないのなら、

何か今出来るものをやり始めなければならない。

 

何もない今ここから、つまり「ダサいさん」としての

ありのままの自分から出発しなければならないのだ!

 

自分自身の足で立つことが怖いから

「親のせいだ!」とか

「会社(上司)のせいだ!」とか

「(元)恋人のせいだ!」とか

「社会(世間)のせいだ!」とか

「運が悪かったせいだ!」などと

自分以外の者(物)に責任を押しつけるのだ。

 

いやいや、私の主張を誤解しては困る。

責任なんぞ取る必要はない!

 

今の自分の現状を受容れるだけで、すでに責任は取っている。

 

自分の人生を「これは私の選んだ人生です」と言えるとき

あなたは人生の責任をちゃんと100%取っている。

 

だから、ただ自分らしいと思うことを始めるだけでいいのだ。

 

それも、今すぐ!

 

そうすると「ああ、なんだ~♪」

 

親や上司や元恋人や友人たちは、私という人格を攻撃していたワケでも否定していたワケでもなく、ただ、そういう考え方は苦しそうだし生きにくそうだし、もっと別の思考の方がいいんじゃあないか?と親切にも提案していただけなんだ、と分かるのです。

そうか。

 

「自分自身」と「他人である思考」とを区別できていなかったのは私の方なのだ・・・と。

 

最後にもう一度、テーマである「思考は他人」に話を戻そう。

 

受信した思考も他人:

私はミディアム(霊感)体質なので、他人の思考をイメージとして受信してしまう。ある時オープンカーで隣に女性を乗せた青年が、狭い路地を歩く私のすぐそばを猛スピードで通り過ぎていった。危ないなぁ~何てヤツだ!と思った直後、頭の中で私がその青年と闘志剥き出しで殴り合ったり猛スピードの車で競い合うイメージが来た。なんとも私らしくないので、それが私のイメージではなく、その青年の溢れるエネルギーが持つ思考なのだと分かった。受信したということは同調したということだ。一瞬だが、私もその青年の挑発に怒りが湧いたせいでチャンネルが合ったに違いない。

 

若い頃なら、私はその思考やイメージを自分の気持ちであり、その気持ちから生じた空想だと片付けたろう。しかし、歳を取って全くの平和主義になってしまった私だからこそ、このイメージは自家製ではなく受信だなと、ふるい分けることが出来るのだろう。

 

え~?

自分がそう感じたなら、それは自分だろ?

という反論が聞こえてきそうだ・・・。

 

確かに

そういう「驚き」とか「怒り」という心に生じた感情は

心の内側の自家製のものとして「自分だ」と言えるだろう。

 

だが

その受信したイメージや思考に対する私の意見は、

やはり「自分」ではなく、「他人」だと言っているのだ。

 

そして、逆にその他人の思考を採用したせいで苦しんだり喜んだりするとき、

その感情は自分のものだ!

感情は本当の自分の在り処を示してくれる矢印なのだ!

 

あれ、もっと分からなくなったかなぁ~(;@@)

 

じゃあ、次は

「感情こそがクリアリングの道先案内だ」を書くことにしよう!

 

 

羅王