エッセイ「かつて私は市電の運転手だった」

かつて私は市電の運転手だった。


高校時代の同級生がいきなりメールをしてきて

何かを送ったから楽しみにしていてね♪といってメールしてきた。

GW中のイベントで忙しくしていてすっかり忘れていたが、

大阪の自宅に戻るとそれらしいものが届いていた。


へ~、ナンだろうと包みを開いてみると、

広島で有名なアンデルセンというベーカリーが販売している

「広電クッキー」なるものだった!

可愛らしく包装された缶の蓋をあけると、電車や吊り革・レールや

帽子や街路樹などをモチーフとしたカラフルなクッキーの

詰め合わせになっていた。

 

そう・・・私が広島電鉄に入社したのは18歳のときで、

今からもう30年以上も前になる。

私はレールの上を走る電車が好きだった。

高卒で入社し、車掌時代を経て運転手になった。

働きながら通信大学で単位をとって卒業もした。

 

当時は好景気で待遇もかなりよかったし、少しは会社側からも期待されていたという感覚はあった。あと42年も働けば、このまま係長くらいには昇進したかもしれないし、私鉄総連が強かった時代なので、平社員の待遇も悪くなかったのだ。

 

今でも妻は時々生活に疲れると、広電を辞めてなかったら、今頃ラクラクな生活をしていたよね~、などと言う事もあるのだが・・・。

 

母の死を契機にして24歳の私は

市電運転手の職を辞して上京を決めた。

その後、さらに大学、結婚、渡欧、21年間のドイツ語圏滞在へと生活は変転していく。 現在の私がまるでフーテンの寅さんのように占いの仕事で生計を立てていることを思えば、僅か6年間であったが、それが私の人生で唯一、安定した会社員時代だった。

 

このとき私はまっとうな社会のレールから脱線したのだろうか?

 

ところで昨年、

私の大学時代の恩師である宮下啓三教授が他界された。

通信教育学部時代からずっとお世話になり、私がドイツ語を学ぶきっかけとなった師である。

まだ私が広島で運転手をしていた頃、先生が講演で広島に来られたとき、先生からその著書「メルヘン案内」を頂いた。

 

先生は本のカバー裏に万年筆で何かをサラサラと描いて下さった。

それは原爆ドームを背景に電車が空に向かって飛んでいる絵で、その下に「羅王クンが運転すると・・・電車はいつも空に向かって脱線する」と書き添えられていた。

 

どうやら、先生の目には、私が会社員であったときも決まったレールからは脱線するタイプに見えていたようだ。

 

高校時代の友人にとって私は今でも

「ガイド・通訳の羅王」とか

「占い師の羅王」ではなく、

「広電の羅王クン」なのだろう。

 

電車を運転していた私は、

今の私にとってはるか遠い記憶だ。

 

コーヒーを淹れてバター風味の電車や吊り革、

タイヤやレールのクッキーをかじると、

当時の紙屋町や八丁堀の喧騒が聞こえ、

平和公園や原爆ドームを背景にゴトゴトと

相生橋を渡る電車が見える気がした。

 

それは確かに私の青春のひとコマであった。

 

羅王