最近、友人のS君は酒の席でよく腹を立てる。
営業職なのだが、契約が取れても取れなくても、困った客が多いと嘆く。
話の通じない人も少なくないという。
それで何が困るのかと聞くと、一番厄介なのは客ではなく同僚というか後輩の仕事ぶりが問題だという。
客への対応や気配りが足りない。
服装や言葉使いもなってない。
仕事に対する理解も足りない。
要するに意欲がないからだという。
それなら、今の世代はそれがフツーだから、
そういう時代なんだと思ったら、と私。
でも、後輩たちも立派な大人だし、
それも大学出の社会人なのに!と 言うS君は、
ナントカその発言や行動を矯正しようと頑張ったり、
仕事への熱 意を持ってもらおうと努力した。
そして、その結果さらに誤解と溝は深まり、
苦手な先輩として敬遠されるということになったらしい。
そうか、営業職の先輩は大変だねぇ~と応じながら私は思った。
相手が何かの動物だと思うなら、
そんな努力は最初からしないに違いない。
そうだ、クマだと思うことにしよう!
クマなら仕方ない。
そんな風にあきらめてしまえば心はとても平和になると思う。
たとえば、ゾウとかイルカとか、ニワトリとかフクロウとかに対してなら、
誰も社会的常識なんぞを理解してもらおうなどという無駄な努力はしない。
すると・・・、世界は平和な動物園になる♪
なんにせよ、
まずはS君が自分の価値観を後輩に押し付けるのをやめることだと思ったが・・・ま、それは口には出さなかった。
S君が教えたがっている社会的常識は、S君の歴史が創り出した個人的な価値観だ。それはS君の経験則であり揺るぎない正義となっている。その正義がS君を生きにくくさせているようだ。
おっと、S君は決して悪人ではない。
嫌われるタイプでもない。
基本的に友だち思いのとてもいい奴なのだ。
ただ、個人的な価値観と常識を混同しているだけなのだろう。
私の文章を読んでいるあなたが常識だと信じている多くのことも、実はあなたの個人的な意見であることが多い。
中元や歳暮、年賀状や暑中見舞い。
家事や仕事の進め方、
さらに結婚、同居、別居、転職、離婚。
すべき?やめるべき?どうやって?
他人がどうしているかはあくまで参考であって、
答えはいつもあなた個人の状況と価値観による。
常識というものの本質は、この個人的な価値観とかなりな部分オーバーラップしているので見分けがつかなくなるのも仕方ない。
そもそも気持ちのいい関係とは、価値観が似ている関係を言う。考えることや感じ方が同じで、基本方針が大幅にずれることがないとか、こっちが求めていることを分かってくれて、そういう対応をしてくれる。
価値観が明確ではなく利害の対立がなく金銭も関わらず上下関係もあいまいな学生時代などは、何もぶつかることなく友達付き合いができるものだ。そして、社会人になって人といい関係を築こうとするときも、無意識で自分の価値観を押し付けてしまう。
もちろん、相手といい関係を築こうとして、あくまで善意でそうするのだ。運よく同じならよいが、異なるとぶつかってしまう。ぶつかったとき多くの人は自論の正当性を守って闘ってしまう。
私はそうではないと思う。
まずは、あなたが自分の価値観を人に押し付けるのをやめることだ。
異なる価値観が出会う目的はどちらが正しいかを証明することではない。いかに共存するかなのだ。
そのために価値観の地平を広げる必要がある。
だから、自分の価値観を広げる機会が来たと捉えるのがよい。
たとえ家族や夫婦であっても、自分の価値観と相手とは必ずしも一致しないと考えて、問題はその共存であると知っているとき、誰かを矯正したり否定したりする必要はなくなる。
ただ、大抵の人は自分と価値観の合う人を「ちゃんとした人間」と考え、そうでない人を「動物」にしたがる。相手を動物にしておいて、あなただけ人間だという差別はいけない。ここで私は自分自身も相手も動物であり人間以下として見下せと主張しているのではない。
アメリカを7週間かけて旅行したとき、カリフォルニアの海岸に居るというアザラシを見に行った。アザラシ達は気持ち良さそうに昼寝している。隣のアザラシに手を掛けたり、寝返ったり、鼻を膨らませていたりする。
仔アザラシが飛び込んで跳ねる水しぶきに迷惑そうに鼻を鳴らす。
見ていて飽きない。どこか癒されてしまう。
なぜか?
ありのままだからだろう。
そうだ。
価値観の違いはあって当り前。
それがありのまま自然なのだ。
世代のギャップは、相手の価値観を受容れることから始まるのだろう。
ラ (^王^)/